大伯父は、昭和14年に熊谷陸軍飛行学校に入校しました。
その後大刀洗陸軍飛行学校へ入校し、操縦技術を学びました。
遺されたアルバムからは当時の時代背景と心構えがうかがえます。
父親に宛てたはがきには飛行学校の建物の案内や東京見物の報告をしたりと当時の様子が目に浮かぶようにわかりました。
そのほかの写真には戦友・竹馬の友の紹介もあったり思い出のアルバムになっています。
大伯父は、昭和18年8月に東部ニューギニアの上空で戦死したと聞いていました。
祖母の家に額縁に入れて大切に飾られている大伯父の遺書は、ニューギニアへの南海派遣が決まってから送られたものだったのかもしれません。遺書には色々な想いが綴られていました。
その中でも一番目に留まったのは、「人間いたるところに青山あり 死は鴻毛より軽く 忠孝は大山より重し」という一文でした。
当時は死ぬことこそが名誉だといわれていた時代。軍人勅諭の一文にもある言葉です。
「人間はどこでも死に場所がある 死ぬことは惜しいことではない」と出撃していったことが読み取れました。
今年、所属していた部隊や操縦していた航空機を知りたかったので、軍歴証明書を取り寄せました。
軍歴証明書には、大伯父の戦死状況まで記載されていました。
それは「敵戦闘機と交戦中に発動機に受弾。片発飛行で基地の近くに不時着したが、頭部の頭がい骨骨折と顔面部の挫創を受けてその日に亡くなった」とのことでした。
その部分を読んで、涙が出ました。どんなに痛かっただろう、どんなに悔しかっただろう。
本当に無念だったと思います。
数冊のアルバムを見ていくと、飛行学校の生徒だったころの大伯父の穏やかな顔が、南洋から帰ったときには厳しい顔つきに変わっていました。戦争が人格までを変えてしまったのかもしれません。
戦争の実態はゲームのようにただ撃ったり爆弾を落としたり、闘うだけのような表面的なものではなく、戦争は生身の人間同士の生きるか死ぬかの熾烈闘いなのです。
苦しみは実際に戦場に行った人でないとわからない壮絶なものだったと思います。
攻撃されれば傷を負います。その傷が元で死に至る場合もあります。また、手足を失ったり失明することもあるでしょう。撃てば撃ち返されるのは当然です。自分が死ぬか、相手が死ぬかなんです。
自分にも大切な人達がいて、相手にも大切な人達がいる。
大伯父は亡くなった時、母の写真を肌に着けて持っていたそうです。
戦争は悲劇を生むだけのものです。
今回軍歴証明書を見て、戦死にそういった経緯があったことが分かり、戦争の悲惨さをより身近なものに感じました。 |
大伯父の遺したアルバムの一部を紹介します。
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飛行学校在学中の様々な出来事がアルバムに綴ってありました。 |
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